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歴史は語る

ホテル・プリの始まりはつとに有名です。この建物はタン・キム・セン( 1805 - 1864 )の子孫が代々所有する家だったのです。タン・キム・センは華人移民の 3 代目としてマラッカで生まれました。彼の祖父は、 18 世紀に中国福建省のアン・チューン地方からマラッカへと移り住み、大成功をおさめました。 1819 年にスタンフォード・ラッフルズ卿によってシンガポールができると、タン・キム・センはシンガポールへ移りました。シンガポールでより大きな成功をおさめると、彼は社会への貢献を深めていきました。人々がシンガポール川を渡りやすくするためにキム・セン橋ӛ 4;掛けたり、テロック・アヤ・ストリートにシンガポール初の中華学校チョン・ウェン・グを建立するための基金に 880 ドルを寄付した最初の人物にもなりました。この建物は今でもシンガポール最古の寺院シアン・ホック・ケンに隣接して残っています。 1854 年には 13,000 ドルをイギリス政府に寄付し、シンガポールで初めての貯水所を建設し、水道を敷設しました。エリザベス・ウォークにあるキム・セン噴水はこの業績を記念して建てられたものです。


一方で、タン・キム・センは生まれ故郷のマラッカを忘れたことはありませんでした。彼のマラッカへの貢献も、シンガポールへのそれと同様にとても重要なものでした。マラッカ・キム・セン橋やキム・セン時計塔は彼の遺産のほんの一部に過ぎません。


ホテル・プリの入っている建物は 1822 年に建てられ、 1840 年にタン・キム・センに買い取られたものです。 1876 年には彼の孫にあたるタン・ジャク・チュ - により 14,000 植民地ドルをかけて改築されました。この建物が建っている土地はオランダ統治時代にはオランダ人たちが所有していた土地で、その権利証の日付を調べると 1819 年 4 月 28 日までさかのぼることができます。マラッカ有数の旧道であるこの通りはオランダ人からはヒーレン・ストリートと呼ばれていました。今でも華人からはオランダ通りと呼ばれています。この通りはまた、初期の開拓期に中国系の富豪たちが多く住 ;んでいたことから、ミリオネア・ロード(長者通り)とも呼ばれていました。マレーシアの独立後、この通りはトゥ・タン・チェック・ロック通りと改称されました。独立に大きな役割を果たし、現在の指導的な政治団体でもあるマレーシア中華協会の創立者、トゥ・タン・チェック・ロックを記念したものです。彼の息子であるトゥ・タン・シュー・シンは、 15 年にわたってマレーシアの財務大臣を務めました。その一家の家は、 111 番地に残っています。この通りには他にもいくつか、代々に伝わる長者たちの家が往年の姿そのままで美しく修復され、残っています。


Air well

ホテル・プリの建物は、表の通りから一番奥の厨房まで全長 100 メートルの奥行があります。通気と採光のための吹き抜けが 3 ヵ所、水道がなかった時代に水を汲んでいた井戸がありました。この井戸は現存しており、以前のカフェ入口そばに置かれています。現在、ホテルの庭と L 字型の新しい棟がある場所は中庭でした。中庭は、タン一家の馬を飼う厩舎と馬車を置く場所として使われていました。またそこに小動物園を有し、トラや鹿を飼っていたとも伝えられます。ホテルの向かいにあるチー家伝来の西洋風建築を除き、この通りにある建物は中国、西洋、地元マレ 540;文化が混ざり合った、プラナカン文化を象徴しています。


ホテル・プリの改築、開発にあたっては、この象徴的な建物の特徴を損なう事がないように最大限の注意を払いました。建物の入口から中庭や先祖伝来のホールにかけては、彫刻を施された扉、窓、仕切り、装飾的な吹き抜けなどを、元の姿のまま注意深く保存しています。中国本土の家に見られるような幸運、健康、幸福を願う中国語の詩などで飾られた戸、窓、扉も細心に修復しました。寄木の床、壁面のタイルや大理石は時間をかけて磨き上げました。それらの寄木や壁タイルは 19 世紀にイギリスから輸入したものなので、同時代のイギリスの古い家屋との類似点 2434;見ることができます。中庭から続く建物部分については、残念ながら修復不能の状態だったため、取り壊すことになりました。しかし、この新しい建築部分についてはできる限り元の建築様式を反映させ、古い建物部分と調和するようデザインしました。ホテル・プリ・マラッカでは、建物の保存と、ゲストの皆様へのくつろぎ空間の提供を上手に両立させています。プラナカン屋敷の家庭的で心温まる空間でリラックスしていただくために、ホテル・プリはあらゆる努力を惜しみません。

Serenity in the heart of Malacca.


ところで、プラナカンをご存知ですか?マレーシアに移り住んだ華人の子孫で、元々の自分たちの言語を忘れ、マレーの習慣を身につけ、地元のマレー人と婚姻関係を結んでいった人々を総称して、元来はインドネシア語でプラナカンと呼んだのです。一説には、こういった人々の存在を 15 世紀までさかのぼる事ができるとしています。明時代の中国は広範囲に貿易を行っていました。当時の皇帝は、戦略的に重要な拠点であるマラッカ港との関係を強化するために、マラッカの支配者に自分の娘を嫁がせました。その皇女が 500 人もの側近達とともに暮らしたブキ・チャӝ 2;ナ(あるいはチャイナ・ヒル)が、マラッカにおける初めての恒久的な中国人居留地だったのです。それら初期の定住者が地元マレー系の女性と結婚し、男性は「ババ」、女性は「ニョニャ」として知られる、プラナカン第一世代となりました。彼らの子孫はやがて、自分達のコミュニティーの中で結婚をするようになっていき、マレー語が彼らの共通語となりました。ババとニョニャは先祖伝来の中国式の習慣や伝統を守る一方で、特に服装や食習慣についてはマレーの文化を取り入れていきました。

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